ヘンリープール 6代目当主
アンガス・カンディ氏インタビュー(2010年11月)

ヘンリープール6代目当主、アンガス・カンディ氏。1937年生まれの氏は、サヴィル・ロウの重鎮であり、生き字引とも言われる伝説の人物です。
スーツの聖地、サヴィル・ロウの発展に尽力し、一時既製服に押されていたビスポークを、文化においても、ビジネスにおいても復活させた立役者でもあり、今でも世界中から多くの人々がアンガス氏の意見を聞きに訪れるといいます。
息子であり、跡継ぎでもあるサイモン・カンディ氏とスタッフを育てながら、今も活気あふれるアンガス氏が2010年11月に来日。ロングインタビューする機会を得ました。
まだまだ語り尽くせぬ深さをたたえつつ、歴史を知る人のみが聞かせる奥行きあるお話、たっぷりお楽しみください。


Angus Cundey(アンガス・カンディ)
ヘンリープール社 6代目当主

1937年生まれ。1955年にヘンリープール入社。1978年、6代目当主に就任。現在では、サヴィル・ロウの伝統と、英国服飾文化を次世代へ渡していくため、多忙な日々を送っています。


前ページへ次ページへ
1|2|3

―― 白洲さんはヘンリープールの常連だったとお聞きしています。「初めての顧客は顧客ではなく2度目のご注文があった時に初めて顧客と呼ぶ」とお店で教えておられるそうですね。

アンガス:もちろん初来店のお客様が最も難しいのです。その方の体にあったものを作るにあたって、ものすごく努力をして完璧なものを作らなくてはならない。だからこそ、最初の1着を大事にしよう、ということはすごく言っています。その方が気に入ってくださってこそ次のオーダーが入るので、そうなってはじめて顧客になったのだということを話しています。
うちのお客様だ、ということで安心して受け入れられるのではなく、最初のお客様にすごく気を使うという意味で、最初のお客様を我々の顧客だとは、まだ考えてはいけないという風に言ったているのです。
これは教訓というよりも哲学です。そうなるためには最初のオーダーにものすごく神経を注がなくてはいけないという意味です。2回目に来てくださったということは1回目で成功したということなので、成功したからこそ顧客となって長い付き合いが出来るととらえています。

―― ビスポークを気に入ってくださった、とも考えられますね。既製服にはないビスポークの良さを教えてくださいますか。

アンガス:すごくシンプルな答えになりますけれど、ビスポークはあなたの為だけに作られたもの、既製服は誰彼の為に作られたもの、という違いです。簡単ですが一番伝わる答えだと思っています。

―― 例えばアメリカ、イタリアのオーダースーツと、サヴィル・ロウのビスポーク・スーツの大きな違いはなんでしょうか?

アンガス:それは「シェイプ」です。形とエレガンスですね。この場合のシェイプというのは形だけではなくて体にフィットした、という意味です。
アメリカのものはどちらかというと大きなもの、シェイプがほとんどないバサッと着せるもので、イタリアのものは肩がものすごくはっていて肩パットがはいっており、体にフィットするものではない。誤解しないでいただきたいのですが、決して悪く言っているわけではなく、あくまで私が経験上で感じていることです。
それに比べて英国のものは肩がナチュラルでボディーにきれいにフィットするもの、これはハッキングジャケットという馬に乗っての活動のための服からきていると思います。

ヘンリープールのポリシーとしては、一番ステキに見える、着こなしていただけるものを売ることなので、例えばエキゾチック・クロスといいますか、スーパー200みたいなものを高級生地ということでお客様に押しつけるということは絶対にしたくないわけです。そういうものに限って形がくずれ、半年とか一年もたなかったりするのです。納得できない物は売りたくないんですね。
お父さんから息子へ、息子からその息子へというように100年の歴史を受け継ぐ、長く持つものを作りたいと思ってます。

―― そのポリシーが日本でも支持されています。日本でビジネスを始められたのは1964年ですね。

1950年に松坂屋の伊藤さんがいらっしゃった時に、モーニングコートやスーツをたくさん作っていただいたのですが、その時私の父に、「ヘンリープールをすごく気に入ったので、少しだけ自分の銀座の店に置きたい」と申し出られたそうです。父はたいそうびっくりしまして、そういう訳にはいかない、と。

しかしその後の親交が深まり、1963年、お話を断った父が日本に飛んで、松坂屋さんとの契約にサインをしたのです。ヘンリープールは英国からカッターを日本に派遣し、スタートすることになりました。1964年に銀座松坂屋さんの2階、片方にニナリッチがあり、片方にヘンリープールがあるという環境で、テーラーインショップをオープンさせたのです。
オープンして10年経った頃、それ以降にも英国からカッターを送り続けることは事実上無理ということになり、1974年からライセンスを許諾して、日本で作ることになったわけです。

ある時私は、英国の製造業の意向として、日本の英国商工会のようなところに招待されて日本に行ったことがあります。そのときのパーティーで、私はまだ入りたての17〜18歳の青年だったと思うのですが、そこの商工課の一番偉い方から、「(バーバリーやアクアスキュータム等そうそうたるメンバーに向かって)さあ、みなさん。ヘンリープールと同じことをしてください。」と皆さんに私を紹介されました。
それは英国の企業として初めて日本と契約を結んだ為、その後に続けと私をみなさんに紹介してくださったということです。今でも思い出されます。
1964年から今年の2010年まで日本でずっとお仕事をさせていただいたことを誇りに思いますし、次の50年も同じように仕事が続いていくことを願ってやみません。

―― そういうこともあって、今の日本では注文服と既製服が共存しつつ、それぞれが文化を創っているのですね。

1900年代はハワード・カンディが一番店を大きくしました。300人のソーイングテーラーとカッターが14人という最高に大きな会社となっていました。
しかし残念ながら、その後英国でも既製服産業が盛んになって、アクアスキュータムやダックスなどのメーカーが登場しました。
村という村に一人はテーラーがいて村の人間の仕立てをするという文化でしたけれど、そのテーラーも全ていなくなり、私たちのビジネスも最盛期からはずいぶん変化しました。

その他にも、エレガンスの時代から最高級のフォーマルなものから、ブレイザーだったり、アノラックスみたいなコートにどんどん取って替わって、ドレスコードも燕尾服からタキシードに、モーニングコートもなくなり、一番当時着られていたフロックコートも基本的には消滅してしまい、しいて残っているのがラウンジジャケットであり、タキシードです。フォーマルな洋装が世の中から消えてしまいました。

しかし、悲しいことばかりではなしに、つい最近英国のテレビで見た社交ダンスのコンペティションでは、確かに男性が着ているのはドレスコードでとてもエレガントに見えましたし、もしかしたら将来このような姿が世に戻ってくる可能性だってあるかもしれません。
それに以前よりも晩婚化していますね。これは男性が多少なりともお金を蓄えた上で結婚される、と解釈も出来ますね(笑)

最近では、モーニングコートをいろんな機会で着ることも増えていると聞いてます。実際今日、ホテルオークラでも結婚式だと思うのですが、モーニングコートの方もいらっしゃいました。

―― ドレスコードは日本ではなかなか根付きにくいようです。

前ページへ次ページへ
1|2|3



インタビュー:株式会社チクマ ヘンリープール事務局
2010年11月10日 東京にて
(c) 2010 Chikuma & Co. All Right Reserved.

▲BACK