ヘンリープール
サヴィル・ロウ本店
アンダーカッター
鈴木一郎氏 インタビュー
第1部:日本での学生時代から英国留学まで
※「第2部:サヴィル・ロウの日本人カッターとして」を読む
●日本の大学から、英国の大学へ
――子供の頃から服がお好きだったんですか?
それはないんです。大学入った頃ですね、興味を持つようになったのは。バイトもして自分のお金が入るようになって…ブランドものばっかり買ったんですよね。
――いわゆるDCブランドとか?
イタリア、イギリス、グッチ、プラダ、バーバリー。その頃は虚栄心が満開でした。そういうものにお金を費やして、目立って、自分なりに頑張っていた気がします。それで個性を作ろうとしていた……今考えるとかわいいものですね。いま考えると恥ずかしい時期でもあるんですけど、それがなかったら、今ヘンリープールでカッターをやっていないと思います。
――それはイギリス、イタリア、アメリカ関わらず、服が好きと。
服が好きというか……とりあえずいいもの着ていたいという感じです。好みのスタイルであったり、特定のカラーリングが好きとか、そういう服に対する哲学みたいなものは全くなかったです。とりあえず高いもの買って着ておけば間違いないのかな、と安易な感じで。そういう観念って今の日本でも根強くあるんじゃないでしょうか。ともかく、自分なりの個性をむりやり作ろうとしていた時期だと思いますね。
――ということはファッションとして服を着ていた?
そうです。流行の雑誌買ってこれいいな、買いに行こう、とそういう感じです。
――どの辺りに買いに行ってたんですか?
大阪のミナミですね。心斎橋です。ルイ・ヴィトン本店とかよく行きました、御堂筋の。
――百貨店じゃなくて、直営店で。
はい。
――高い買い物ですよね。
そうです。だから、そういうものは必死にバイトして買うものじゃないと今ではわかりますけど、あの頃はわかってなかったですね。バイトして、高いものを買う。みせびらかしというわけじゃないですけど、頑張ったご褒美というか。そのかわり持っている人が多いんですけどね。海外のブランドの本質からしたら違うかなと思いますが、そういう風潮って、日本に根付いている部分として、良くも悪くもあると感じてます。
――それが一郎さんの中で徐々に変化していった訳ですね。
そうですね。
――お金をかけてファッションで服を着る、という意味から、変化があったんですか?
服を投資として考えられるようになった、ということです。今の自分はその投資があるおかげです。
――どの辺から変化があったんですか?
徐々に、ですけど、服は着ているうちによれてきたり、ダメになったりしますよね? あんなに高いお金出したのにって思います。素材はウール、カシミアとか、良いものであっても。そんなことを考え出した頃です。自然素材にこだわりはじめてました。本で読んだ受け売りなんですけど、独学で勉強したりして店に行って物色して楽しんでました。
――つるんでた友達がいたとかではなくて?
違いますね、特には。
――ほとんど一人?
あ、一人いましたね、バイト先に。その人の影響もけっこう強いかもしれないです。買い物行くのはその人か、自分一人でした。基本的に一人が好きなので。
――お店の人と仲良くなったりとか?
そうですね。ハガキはしょっちゅう来てました。
――ハガキが来るほど買ってたということですね?
そうです。
――あれ、かなり買わないときませんよね。
そう。買ってたのはグッチとかヴィトンとか。あとポールスミスのコレクションとかもよく
行ってました。
――大学行っても勉強よりは服への関心が高かったんですね。
当時勉強しなかったという後悔の念が強い分、今頑張れているんです。大学ははっきり言って何もやっていないです。いわゆるモラトリアム型の大学生でした。何をやっていいのか分からない、という感じの。
――何を専攻していたんですか?
国際文化学科です。語学は好きだったので英語やったりスペイン語やったり。あと色んな勉強をしていたんですけどね、人類学とか。
――語学は関心があった?
はい。語学系の大学だったんです。
――英語はまずやりますよね?
そうですね。そこで勉強していたかは別なんですけど。本当に好きだったら在学中に留学とか出来たんですけれど、しなかったですね。部活でバスケットボールをやっていたんですが、それに明け暮れてました。
――じゃあバスケットと洋服がほとんどだったという。
そうです。普通の遊びですよね。典型的な日本の大学生だった。
――卒業する時に進路を考えますよね。学校もそういう空気になっていくし、友達もどこの会社受けようかという話になりますよね。その時に最初から会社には就職しないと考えてたんですか?
企業の人には申し訳なかったんですけど、面接があってもすっぽかしたりとか全然ダメな学生でした。親に叱咤激励されて……親孝行ってわけじゃじゃないですけど、親の為にちょっとやってみたというのもあります。でも自分では何をやっていいか分からなかった。でも、周りの就職が決まっていく中で焦りはなかったです、自分の中で、何がやりたいのか見つけたかったのはあります。その頃やっとブランドだけじゃないって事を感じるようになって。グッチだったら革製品だとか、靴や鞄はしっかりしていますが、衣類はそこまで長持ちもせず。やっぱりブランドはトレンドがあり一過性のものです。落合正勝さんの本に出会ったのも大きかったです。彼の本はすべて読んでいると思います。
――落合さんの本は洋服の知識が満載ですよね?
面白かったですね。今読んでみたら、面白い部分もあればそうでない部分も書かれてますけど。それは今自分が服を作っているからこそ分かることでしょうね。やっぱり、作れないと分からない部分もあるんです。
当時の僕は、落合正勝さんの本を読んで、それを受け売ったりしてました。嫌な話ですけど店員さんを試してみたり。ほんと、嫌な客だったと思います。でも、そんな店員さんとの話や落合さんの本で色んな知識を身につけましたね。その中でも紳士服と言えば代表されるのがスーツ。それが今やっていることに対して興味を持った過程ですね。
――その時に服を作りたいという考え方になったというのは、なぜなんでしょう?
やっぱり一級品を知るためには作れないと難しいと考えたんです。仕立屋の人に失礼を言うつもりはないんですけど、二十歳そこそこから医者とか法律家を目指す訳ではないので、今から頑張れば出来るであろう、と考えてました。もちろん一流のテーラーになるにはある程度卓抜しないと難しい。でもやって出来ないことはないのではないかと。
その前にイーストボーンというところに3ヶ月程英語留学していたんです。ロンドンから電車で1時間半ぐらいのところで、ブライトンの近くです。その時に学校へ行こうと決めました。
――それは大学の4年?
いえ、卒業して一年ほどバイトしてお金貯めて行きました。語学学校には学生もいましたし、僕みたいに卒業してから来ている人もいました。
――ほとんどまともにはしゃべれない状態?
そうですね。かなり勉強しました。その時、後悔の念が出てきたんですよね。大学時代、あんなに時間あったのに、何してたんだ、と。
イーストボーンの学校では、生徒同士話す事は、学校と他人の悪口、将来どうするかという内容がほとんど。でもね、これで英語がうまくなるんですよ。会話では大義名分というのが欠かせないんですよね。将来何をしたいのか、それを自分で話せないといけない。言っておかないと恥ずかしいという訳ではないですが、こんなことをしたい、という夢を語るんです。こうしたいんだけど、今はどうなるか分からない、とか。何も考えてないという人はあんまりいなかったですよ。でもみんな、実は何も考えてないと思うんです。僕もそうでしたけど。
――ポーズとして言うみたいな。
そう、なんとなく分かるんですよね。さっきも言いましたが、モラトリアム型の人間だったんで、大義名分として言ってました。俺はこういう事がやりたい、って。
――ロンドンだからいろんな国から人が集まってきてますよね。だいたいこんなことがしたいんだということを雑談で話すんですか。
僕の場合は、英語でいうエスケーピズムじゃないですけど、現実逃避みたいな。逃げ出したい気持ちもあったんです。語学が好きだったので、その延長線上に仕立ての勉強がしたいというのがありました。英国に行った理由はそれですね。多分今海外にいる日本人の3〜4割はそういう人じゃないでしょうか。なんとなくですが、現実逃避という感じがしないでもない。仕事が忙しい、面白くない、何をやっているか分からないから、ちょっとどこかに行ってみよう、という人も多かったですね。
ともかく、色んな人と関われたというのは、自分の生きていく糧、というとおおげさですが、思考材料にはなりました。こんなことを考えている人もいるんだな、あんな人もいるんだな、と。どう見るかは人それぞれですけど。
――服が好きで、語学が好きでということでイギリスに決めたのは、やっぱり語学が英語だったからという理由ですか? それだけじゃなくて?
うまい具合に重なりあったんでしょうね。スーツ発祥の地がイギリスで、英語が好きで。
――だからイタリアじゃなくてイギリスになったと。
そうですね。イタリアも行こうと思っていたんですが、結局なくなりました。
――イタリアも候補だった?
2つをやろうと思ってました。わがままに。
――両方行ってやろうと。
そしてイタリア語もしゃべれるようになろう、と。
――それが結局イギリスに特化することになった?
そうですね。
――最初に勤め先を探しに行ったのは大学の斡旋ですか?
自分で探しました。一旦日本に帰る頃には、ちゃんと英国に行こうという考えは決まっていました。インターネットで探しながら、無理矢理ですけどね。服飾経験なんか全くなくて、針も持ったことがないのに。ファッションなんか無関係っていうくらいの感覚がありました。あるのは情熱だけで、学校に無理矢理押しかけて、入れてくれとお願いしました。ロンドン・カレッジ・オブ・ファッションというところです。上に親の学校があるんですけど。ユニバーシティ・オブ・ザ・アーツ・ロンドンという。そこの下に有名なところで言うとセントラル・セント・マーチンとか。1時間半ですぐ行けるのでいきなり行ってサヴィル・ロウの写真を撮っていました。さすがに威厳のあるとこは入れなかったですけど、外から眺めて。行くのがどうしても土日になるので、もちろん店がしまってますし。
――ロンドン・カレッジ・オブ・ファッションには入学試験はなかったんですか?
普通あるんですよ、ポートフォリオとかスライドとかいう自分の作品をまとめて面接に持っていくんですけどね。それは大学でも色々あるんですが、ファンデーションというところから入って卒業と同時に資格がもらえるのがBA(バチェラー・オブ・アーツ)。段階を踏んでいくんです。4年制じゃなくて、最初1〜2年ファンデーションで基礎を固めて、BAが3年間のコースなんで、合計4、5年で大学の卒業資格と同じものが取れるという。卒業資格というか大学卒業と同等ですね。日本って最初から4年じゃないですか。ちょっと違うんです。
――針も持ったことがない訳だから、ポートフォリオはないですよね?
全くないですね。
――それでも入れてもらえたんですか?
はい。
――情熱だけで?
1回行って、入りたいという気持ちを伝えて、次の面接を取り付けて。
――でもまだ英語も流暢に話せないですよね?
ただその頃には勉強をむちゃくちゃしたためか、英語力が伸びたのは自分で感じてました。
――しゃべれるようになった?
はい。こういうことは自分で言うことじゃないかもしれないですけど。語学に対しての免疫とか学習能力が付いていて、ある程度分かるようになっていたので。それほど語学の心配をしてはいなかったです。ただ今は今で、別の意味で壁はありますけど。当時は、語学を学んでいく上でのプランがあって、その通りにやっていました。
――語学はファッションとは別の語学学校に行ってたんですか?
そうです。行っていた当初はアジア人とばかり話してましたね。アジア人はしゃべれないというレッテルを貼られてると感じてました。それだったらそれでいいじゃないかと僕は思って。
僕がやっていた勉強方法は、DVDなどを見て、使えそうな表現をずーっとノートに書き出して、それを一人で読むんですよ。読んでるからすらすら出てくるんですね、その場面場面に応じたことを。誰かが話しかけてきても、かまわずに一人でしゃべってるんです。分からなくてもいいんですよ。それによってすらすらしゃべれるというのが身についたんですよね。
――すごい独学方法ですね。
ロンドンに行ってからはヨーロッパ人と話すようになりだして、今はイギリス人と話せるようになりました。結局、自分が立てたプランは間違ってなかったのかな、と思ってます。僕の中ではうまく効率的にいきましたね。
――すごいですね。そういう下地があったんですか。服が好きで、英語に対する高い壁を感じていなかったとか、そういったものが重なってすっと入っていけた。
まあ、過信もあったと思います。
――いい意味で過信は必要ですよね。
そうなんですよね。うまくいったからかもしれませんが、過信してもいいと思うんですけどね。日本に帰ってきて思ったのが、周りの人がいまいち楽しくなさそう、つらそうなんですよね。僕は過信したり自慢したり結構するんですけど、ポジティヴな感じ、嫌みのないように心がけています。とりあえずやってみるという考えです。決まり文句ですけど。
●ロンドンでの出会い
――いよいよ大学を卒業して就職し、テーラーになる為の一歩を始めるわけですけど、サヴィル・ロウを最初から目指していたんですか?
学校は3年行ったんですけど、2年の終わりにテーラリングの勉強をしてイタリアに行こうと思ったんです。ロンドンも少ないのですが、イタリアはコースが結構少なくて、十分な人数が集まらなくて、その年は開催しないということでダメになったんです。それで泣く泣くもう1年勉強して日本に帰ろうと思っていたんですよ。パターンのコースがあったんですけど、その時の面接で会った人が僕の後の恩師になるんですが、アラン・キャノン・ジョーンズという人がいたんです。
――アラン・キャノン・ジョーンズさん。かっこいい名前ですね、役者みたい。
そうなんです。その人がBAコースのメンズウェアの3年目に来ないかと言ってくれたんですよね。普通3年かかるんですけど、1年だけお前やれ、と。そしたら卒業資格ももらえるし、ロンドンで働けるかもしれないと言ってくれました。英国で働く条件はけっこう厳しくて、BAかマスターといわれる修士、学士を取っていないと働けないんです。
――そうなんですか。
学士相当の資格を日本で持っていても、僕の場合服飾を全くやっていなかったので、ロンドンで卒業していないといけなかったんです。それがイタリアのコースに行こうとしていたのに、結局アランに引っ張られて。これは願ってもないチャンスだと。それがデザインに対する興味がわくきっかけにはなったんです。アランがいて、自分で試行錯誤してコレクション作っていくことによって。コレクションやって3年目の始めに履歴書持ってテーラーを訪ねていったんですけど、全然ダメで。アクアスキュータムに配ったのが引っかかって、電話がかかってきて。でもそれはモノを作る仕事ではなくて販売員やってくれという話で。
――セールスですね?
はい。僕は今までロンドンで働いたことがなかったんで、勉強ばっかりで。セールスでもやってみようと。それがきっかけでしたけど、始めに行った時は全部ダメでしたね。まったく相手にされない。門前払いをくらうところもあれば、履歴書だけもらってくれるところもあったんですけど。ともかく、全部回りましたよ。テーラーというテーラーはすべて。
――それは郵送じゃなくて、手持ちで、一軒一軒アポなしで?
はい、作品持って。
――最初はアクアスキュータムにセールスとして入って、そこから…
その3年で勉強しながらやってました。
――アルバイトに近い感じ?
そこで若干お金を稼いで。コレクションが終わって、試行錯誤しながら自分なりに作ったんですけど、けっこう評価があったんです。新聞とかウェブ、雑誌にも載ったりしました。アランは僕がテーラリングを好きだと知っていたので、ヘンリープールに僕の作品の資料を送ってくれたそうなんです。あとこれは運なんですけどね。すごい偶然があって。アクアスキュータムで働いている時かな、アランから電話があって、僕は出られなくて。休憩時間にかけ直したんです。そしたら、ヘンリープールに日本人のお客様がいらっしゃってて。その人は英語が話せなくて、来られる時に日本語通訳を探しているということでした。それで僕に電話がきたんです。
僕の友達で1歳下の一緒のコースをやっている子がいたんですよね。その子に頼んだからって言われちゃって。で僕はアランに言ったんです、俺に行かせてよ、って。すごくいい機会だったので。テーラーにも行けるし。
その前に学校のコースでサヴィル・ロウ・ヴィジットというのがありました。サヴィル・ロウでテーラーを選んで、コースの中で何班かに分けてテーラーを見学出来るというツアーなんですが、ヘンリープールにも行ってたんです。その時おぼえてたのがフィリップで、学生としゃべってたんです。で、君は何歳なの、と順番に聞いていく。僕が24歳と答えると、首かしげてもう遅いかなという意味のことを言われたので、ちょっとがっかりしちゃいましたね。
彼は存在感がありました。ヘンリープールははいろんなビデオとかに出てるんですけど、典型的なイギリスのテーラーっていう感じですよね。でも、はっきり言って入るならどこでもよくて。どこでもというか、ある程度名の通ったテーラーで内心はやりたかった。で、そのまま僕が直接電話して、「俺に行かせて」って無理矢理行くことになったんです。
――ほぼ別の人に決まってたのに?
その子は別に興味なかったようで、「いいよ、一郎さん行ってよ」と言ってくれたので。僕が行くことになりました。
――で、日本人顧客の通訳を?
そうです。その時初めて足を踏み入れた、いや、サヴィル・ロウ・ヴィジットでは行ってるんで2回目ですね。
――いきなり、だったんですね? 今日の今日に電話が?
1日前ですね。ロンドンはともかく、1日前とかそんなのが多いですよ。
――明日どう? とか。
ええ。明日までにこれ提出して、とか。
――そこで初めて通訳としてヘンリープール社に入って。
そうですね。それで、「お前の作品、アランが送ってきてくれてるよ」みたいな会話になって。僕も厚かましく「働かせてよ」と。
――いきなり言ったんですか?
はい。それで履歴書持って行って。その時ちょうど、トリマーがいないんだ、と言われて。トリマーっていうのは、生地が切られた後に、裏地とかボタン、芯地、キャンパスを必要な分だけ切ってまるめてテーラーに渡すという役割の人です。で、研修一ヶ月だと言われて、行くきっかけになったんです。最初は週2くらいからということで。
で、初出勤の朝、バスに乗っていたら貧血になったんですよ。朝ご飯もちゃんと食べて。でも…緊張してたのかな。立ちくらみになって、座ってたんですけど。立ってたらヤバかったですね。ロンドン行って初めてでしたね。それだけ緊張してたのかなとは思いましたけど。このまま電話して辞めようかな、と思ったり。はっきり言って休むという観念が日本よりもゆるいというか、二日酔いで休む人が多いのも知ってたので。問題ないか、と。
――アバウトな行動に関して、ロンドンではあんまり目くじらたてない?
誰もがするので。ただやっぱり日本人だからかな、僕はヘンリープールを休んだことはないですね。ちょっとしんどい時も電話して休んだらいいのにと思いますけど。その辺は日本人ですね。でもヘンリープールは仕事してて面白いので。行ってたら何かしら学べるので、休みたくもないんです。
まあ初日はそんなので、めまいしたんですけど、とりあえず行ったんです。それが始まりだったんですけどね。トリマーとしてやりながら、あとストライキングといって生地を切ることなんですが、それだけをやる人をストライカーと言います。メインにやっていたのはストライキングとトリミングです。それをやりつつ、横でパターン、型紙を切り方をちょくちょく教えてもらいました。
――生地をまっすぐ切るのって難しいですよね?
はい。まだなかなかうまく出来ない。
――色々練習をして?
いや、全部本番です。こう言ったらなんですけど、生地切るだけですからね。失敗のしようもないというか、そこまででは。やはり高い生地を切るとなると、サイモンに伺ってたんですけど。まあ経営者はそうじゃないといけないと思うんですけど。すごくイヤがるんですよね。
――そりゃ失敗したら終わりですもんね。
経営者ですからね。
――買い直ししないと。
そうです。1メートル、10万20万する生地もあるので。
――住んでる場所はずっと同じだったんですか?
ずっとイーストエンドというところで。どちらかというと危ない所なんですけど。日本人で家族で来られてる方は西に住んでいる人が多いです。アクトンという地域なんですけど。
――そのかわり家賃は高い訳ですね?
そうです。東は安いですけど危ない。
――雰囲気が好きなんですか?
アーティスト系の人が多くて、おしゃれな店とかも。色々面白いですけどね。常にパトカーや救急車が走っている音を聞きながら。
――駅でいうとどの辺なんですか?
リヴァプールストリートです。ホワイトチャペルとか。
――東ということはピカデリーサーカスからもっとシティーのほうに、もっともっと抜けていく?
まあシティーに近いです。一番危ないエリアと言われているハックニーというところがあるんですけど、そこも近くて。というか住んでるのはむしろそこらへんなんですけど。そこには「No go zone」と呼ばれるところがあって。
――行くな、と。
そうです。具体的なことは話せないですけど、知り合いとか友達も痛い目にあってます。お金取られたり刺されたり、けがさせられたり。
――一郎さんもあるんですか?
夜歩く時とか気を付けているんで、後ろ見ながらとか。すられたこととかないですね。呑気に過ごしているわけではなく、一応気をつけてます。
●ヘンリープール入社
――いよいよ、入社ですね。
入社というか、正確に言えばアルバイトです。
――初日の光景っておぼえてますか?
先ほどお話ししためまいの印象が強すぎて。一生忘れないでしょうね。もう休んでしまおうかと思ってました、バスを降りた時に。サヴィル・ロウまで行くオックスフォードストリートとか、悩みながら歩いてましたね。まためまいが起こったらどうしようと。普段は緊張しないんですけど、その時は色々考えてました。
――重大なキャリアの初日に辞めようかと? おもろい話ですね。
休んでもしょうがないか、ぐらいで終わっていたと思います。多分。
――何時に入ったんですか?
9時ぐらいです。
――どうでした? 最初入った空気は。
最初はトリミングと言われて、ダニエルというアンダーカッターに色々教えてもらいました。地下にあったんですよね、当時は。その頃ちょうど上の階からワークルームが地下に移った時で。
――改装した直後?
トリミングをやるところが下にあったんです。
――まさに新生ヘンリープールのスタートから関わった。
そうなんですかね。ただ、前の時を知らないので。知ってても面白かったかな。改装されて店を開けた時にちょうど入社した感じです。みんな忙しそうに物を移動させてました、あの頃。
――トリマーとしてスタートした初日はあっという間に終わったんじゃないですか?
デーヴィットとかが地下に降りていくんですよ、トリミング行ってくるって。トリミングって実はあんまり面白くないんですよね。1個ずつやるわけじゃないんです、あの頃は。けっこうためてやるので時間がすごくかかる。10個ぐらいたまってたら、「See you tomorrow. 」とか言われるんですよね。お前が上がってくる頃には俺らは帰ってるから、みたいな空気で(笑)
――時間のかかる作業なんですか?
今の自分では、もうかからないですけど。やっぱり、駆け出しの頃はかかりましたね。
――一日でいえば、今日何をやると決まっていて、順番にこなしていくという感じなんですか?
そうですね。僕はわりとのんびりやってる感じです。
――当時は一番若かったんですか?
今でもまだ一番若いと思います。始めたのが27歳だったので。17歳くらいから始めてる人もいるので、僕はずいぶん遅いですね。ただ、丁稚奉公の制度とか傾向も変わってきてて。25歳ぐらいから会社辞めてやらせてくれと言ってくる人もいるみたいですね。それがいいか悪いか分からないですけど。時代の流れなんですかね。
――どれぐらいの期間、トリマーが続いたんですか?
1週間くらいです。
――1週間? 次の週には違う仕事にステップアップを?
退屈だから、とは言ってないですけど、これもあれもやらせてほしい、みたいなことを言ったんですよ。
――生地を切らしてくれとか。でもすぐには無理でしょう?
いや、やらせてくれました。入ったからにはちょっと厚かましくいかなきゃと思って。それでも、なるべく空気は読んでたとは思いますけど(笑)。いきなりね、型紙切らせて、客持たせてほしい、とは言えないじゃないですか?
――ともかく一郎さんが一貫してるのは、やりたいことをばんばん言って、やらせてもらってる。
僕はどうやら質問がとっても多いらしいですね。アルバイトの時も言われました。人に言われて気がついたことなんですけど、いつも質問するんですよ。初対面でも質問することが多いんです。知りたがりというか、良く言えば好奇心旺盛なのかもしれないですけど。好きなことになるともっとひどくなる。
――トリマーの後は生地を切る仕事をされたんですか?
そう、ストライキングです。ストライキングとトリミングで1年だったと思います。
――そうなんですね。針を持つまでにはずいぶん時間が?
いえ、僕はカッターなんで縫わないんですよ。縫うのは僕が独学も兼ねて勝手にやってることなんです。仕事中は全く針は使わないです。9時から5時は定規とチョークとハサミだけです。
――型紙を作って?
はい。5時過ぎたら縫ったりしてます。
――それはもう一郎さんのやりたいことをやっているってことですね。
好奇心ですよね。やるんだったら全部やれるようになりたい。自分のやりたいことをやっているって思いがあります。テーラーっていうのがどんだけ深い仕事か、僕なりにわかってるつもりです。マスターするまで…、なんて軽々しくは言えないですけど。浅く広くでもいいんで、縫うことはカッティングの助けになるだろうというのでやり始めたんです。もともと習うまでに作り方とか知ってたので。コレクションもやってましたし、それなりに勉強もしてます。内部の構造とかは学生時代に学んで知ってたんです。もっと細かい部分を習いたかったんですけど、テーラーによっても言うことが全然違うんで、やぱり実際にやってみないとわからない。それもすごく面白いことですね。
――1階のフロアーで縫ってる人がいるように見えたんですが?
あれは縫ってないんですよ。仮縫いの糸をほどいてるんです。中には自分で縫う人もいますけどね。クレイグは15年くらいテーラーとしてやってたので、縫うことも出来ます。クレイグは作れるし、切れる。リベリーを作ってるキースもそう。どっちも出来る人はマスターテーラーと呼ばれるんですけど、キースは僕が本当に心から尊敬するマスターテーラーです。クレイグはマスターテーラーとは言えないかもしれない。カッターのほうも学んでるという感じでしょうか。
キースはもう……びっくりしますね、あの人は。キースより服飾を知ってる人に会ったことがない。僕は学ぶ側なんで、言うことは素直に聞いてしまいますよね。間違ってるとも思いませんし、納得することも多いので。キースは、一つ聞いたら三つ答えが返ってくるんですよね。教えるのが好きというのもあるんでしょうけど。
キースはずっとカッティングをフィリップとやっていたんですよ。フィリップのアプレンティスだったんです、キースは。
――アプレンティスというのは、サポート?
丁稚奉公。アンダーカッターのことです。僕がアランのアンダーカッターであるように、キースはフィリップのアンダーカッターをやってたんです。仲いいですね。
基本的に教えるのが好きなんじゃないでしょうか、テーラーは。あんまり最近の若い子は聞きにこないみたいで。それもあって嬉しいんですかね、僕があれこれ質問するのが。彼らはそうは言わないですが、すごく感じます。
――生地を切る為にはまず型紙がいりますよね? その型紙を作る人のことをなんていうんですか?
それがカッターです。
――作ることはパターニングとかいうんですか?
日本語で言うとパタンナーですけど、企業向けのパターン切る人をパターンカッターと呼んでます。日本語のパタンナーというのは、英語でいうとパターンカッターのことです。パタンナーという言葉は英国では存在しないです。カッターの役割というのはフィットしてカットするということです。
――フィットして、まず型紙を作って……型紙の線をひくのもカッターの仕事なんですよね。
日本でフィッターというのもあるんですね。フィッターというのは多分向こうで言う、店にいてお客様の着付けをする、フィッティングするという。僕がアクアスキュータムでやってたような。フィッターというと聞こえはいいですが、実質はセールスマン(販売員)ですね。まあそれが天職という人もいるでしょうけど、中身知らないとやっぱりセールスも出来ないんじゃないかって、僕は思ってます。サヴィル・ロウの職人の世界では、セールスだけ出来てもあまり相手にされないですね。
――パターンにそって生地を切るのであれば、パターンを作ることは何よりも重要な第一歩になってくると思うのですが。それはある程度のキャリアが必要ですか。
いや、パターンなので、誰でもひけるんですよ。インストラクションがるので。
――インストラクションというのは?
説明書です。メジャー(採寸)して、ポイント1からポイントゼロまでこういう線を引いて、ポイント1からポイント2までこういう線を引け、と指示が書かれてあります。パターン引けることより、メジャーを正確に取るということが大事だと思います。
――そっちほうが難しい?
概念的ですが、『システム』というものがあるんです。自分のシステムを持っていることが大事なんです。システムがうまく機能するためには自分なりのメジャーの仕方がすごく大事です。ヘンリープールはメジャーの取り方もカッターそれぞれ、という場合が多いです。それぞれの自分の経験にも基づいているので、なかなかいいか悪いかは一概には言えませんが。
――カッターの個性が反映されるということですか。
そうです。そのほうが習う側には面白いですね。たいていのカッターは、自分のやりたいようにやったらいいとは言いますね。で、僕が使っていたシステムでいうと、フィリップに言われるのはフロントのエッジがいつもちょっと足りないね、と。ちょっときつくなる。フィリップはブロックを使ってるんです。みんなそれぞれにブロックがあるんです。
――ブロックサンプルのことですか?
いや、ブロックサンプルではなくて、パターンのブロックがあるんです。それを聞くと、えっ、誂えのテーラーなのにブロック使ってるの? と思われるかもしれませんが、そうではなくて。ブロックから始まって、最終的には全く変わるんですね。僕も初めは思ったんです、始めからやるのがテーラーじゃないの、と。ポイント0からあって、1、2,3,4,5と。でもやってみてわかったんですが、変わるんですよね、人の体格によって。
――いくつかのブロックが用意されてるんですね? 体型によって。
はい。チェストで36〜46、一人一人違うんですよ、アレックス、アラン、フィリップが持っているブロックは。
――全員自分のブロックを持ってる?
自分のシステムがあって、イチから起こしたブロックを使ってるんです。
――それも最初からシステムがあった訳ではなくて、みんな自分で作っていく。
そうです。僕なりに研究しました。日本とこちらの本と見比べて。
――色々作ってみて自分なりのシステムが出来上がる訳ですね。その中にブロックがいくつもたまっていく、と。
僕はブロックじゃなくて全部です。ゼロから始めることをスクラッチというんですけど、ゼロからやってましたね。そのほうがチカラが付く。ブロックばっかり使ってても意味ないということが分かったんですよ。ファンデーション(土台)がないと、って。ファンデーションがないとブロックを使っても何も学べないんですよね、実際は。以前は、メジャーメント通りに大きくしたり小さくしたりというのが主だった。体型によってここをこう変えるっていうのが分からなかったんで、このパターンの傾斜はいいのかどうか…考えまくってました。アランにスクラッチからやりたいと相談したら、いいよって言ってくれました。
――そのほうが時間かかるんじゃないですか? スクラッチからやったほうが。
それはそうです。
――ブロックからやったほうがある程度の土台は出来ている訳だから。
だからやっぱりブロックからやる人が多いんです。
――スピードもアップ出来るし。
たとえばお客様が何百人もいるカッターは、毎回スクラッチしてたら、1日12時間働いても追いつかないでしょう。
――私の採寸だったら……
多分ブロックは36です。
――そこをもとにして修正していくわけですね? で、私のパターンを作る、と。
はい。
――それが主流ですか?
他のところもだいたいはそうだと思います。年に1000を越えるユニットをこなすとなると、ブロックから作っていくシステムは必要でしょう。他のところがブロックを使っているか、具体的には聞いたことがないですが。
決まってくるところっていうのはゴージのラインであったり、フロントのカットや、あとはポケットの位置であったり。そういうのは決まってくるので、目でやるということはあまり多くはないです。ポケットの位置もカッターによって割り出し方が違うんですよね。基準になるやり方があるんです。ポケットはここから何インチくらい、とだいたいベースはあるんです。それはカッター毎にあります。
●修業時代から、独自性を追求
――トリマーから始まってストライカーを1年ぐらい続けたんですね。
次はパンツのパターンから教えてもらいました。パンツは全員スクラッチからやります。パンツはブロックはないんですよ。そのやり方もアレックスはモダンな現代的なシステムでやるんですけど、フィリップとアランは昔からのやり方をしています。アレックスはセンターラインシステムというのを使います。僕が学校で習ったことでもあるんですが、アランとフィリップはフライラインシステムという、フライのラインから起こすパターンなんです。
――それは好みですか?
慣れでしょうね。ただ、僕は古いやりかたが好きなんで、フライラインでやってます。
――それぞれにメリット、デメリットがあるですか?
センターラインシステムのほうが簡単です。僕はどちらも出来るんですけど、フライラインのほうが技術的に難しい部分がけっこうあると思います。
――型紙を最初に作ったのはいつ頃なんですか?
入社1年後くらいです。まず自分の型紙を作って試しました。仕事をしていく中でブロックを使うこともありましたけど、一日の仕事が終わってから型紙をちょっと作ってみてうまくいくかどうか試してみたり。システムも自分なりのを考えながらいろいろやってました。
システムの中でいかにブロックに近づけて出来るようになるかっていうシステムを、試行錯誤して編み出して行き着いたんですけど。ブロックにいかに似せるかというパターンの作り方も学びましたね。
たとえば前の線のラインであったりゴージの位置であったり、ほとんどブロックに似せて作りました。アームホールの位置だとか色々計算しながらやりました。行き着いたのがどんな体型の人であっても、だいたいそのブロックに近づくであろうというものです。スクラッチからやらせてもらう中である程度フィットするというのが分かってきたんです。
――なるほど。一郎さんがまず自分の服を作った、一番初めの型紙がそれだったと。その時はだれが採寸したんですか?
アランです。自分では出来ないので。
――無理ですよね。背中に手が回らないし。それは残業時間に?
そうです。常に僕は遅くまでいるんです。
――自由なんですか?
はい。クリーナーが帰るまで。ちょうどいい時間になるんですよ、9時とか。
――9時? けっこう遅くまでやっていたんですね?
もっと遅くまでいるときもあります。
――最初に作ったスーツはうまくいきました?
ええ。処分しないといけないほど酷い出来ではなかったですね。まあテーラーに限らずなんでしょうけど、やってみないと分からないこと多いじゃないですか。口だけに限らず。そのラインでもこう書いたらこうなるというのがわからないですね、初めは。実験という実験はたくさんしました。学生の時に、仕事はやってみないと分からないというのは感じていたので。たかが服でも五万とあるんですよね。やりながら試すことも面白かった。修正したラインがうまく出たら普通に嬉しかったり。子供みたいというか初心に返って面白いです。
――その時に使う生地は?
フィリップにもらいました。今はもうくれないですね(笑)
――社内価格で買うんではなくて?
余ってる生地はテーラーが持っていたりするのでくれたりしますよ。自分が勉強で仕立てる服の生地なんて別にサイドパネルが違った生地でもかまわないので、着るつもりはそもそもないから。僕のやった練習は、仮縫いのものをまず作るんです。3段階あるんですが、次にfinish by finishといって最後の前の段階、1段階のものをまず作ってゼロから2段階目を作って、それでまたゼロから終了のものを作るというやり方。サンプルとして、リファレンスとして残すものだったんで、この1着目、2着目はどうでもよかったんです、生地とかは。さすがに自分がちゃんと着るスーツを作る時は好きな生地を買いましたね。
――あえて途中の段階で残すものも作ったんですね? 仕上げてしまわないで?
あとから全体が見えるように。
――今でも持ってるんですか?
はい、ロンドンにあります。
――お話を伺っていると感じるんですが、修行しつつチェレンジ精神も旺盛だったんですね。
楽しい職場ですよ。正社員として生まれて初めて給料をもらった職場なんですけど、ほんとに悔いはないですね。いい思い出ばっかりです。悔しいとか思った時はありますけど。初め入った時は警戒されますよね、ヘンリープールに限らず、会社って。しかもカッターになりたい人は多いので、「なんでお前がカッターのデパートメントで働いてる、日本人なのに。」みたいなのは感じましたね。
――採寸して生地を切って、しかも縫える人をマスターテーラーと呼びますよね。マスターテーラーは少ないんですか?
サヴィル・ロウ自体でも少ないです。分業制が理由かもしれない。その分業制という仕組みもヘンリープールが作ったという話もあります。ログブックがあるんですよ、歩合制のテーラーは。
――ログブック?
やったことをログブックに書いてカッターに持って行って、これやったからと言ってサインしてもらって、経理に持って行くという過程があるんです。
――いわゆる業務伝票みたいなもんですね。
はい。その制度を作ったのがヘンリープールだと言われてるんです。
――そうなんですか。システム自体を?
システム化したのがヘンリープールだということですね。サヴィル・ロウにはフリーランスが多いんです。
――外注の人ですね。
はい。そういう人が多いのでシステムが出来上がったのかもしれませんね。フィニッシャーでも、指定部分の仕事やったりとか。昔多かったのはヘンリープールだけから請け負う人ですが、今は色んなところに行って仕事を請け負っている人が多いですね。
――入ってから1年くらい経った頃ですが、慣れてきましたか?
初めの3ヶ月から半年くらいは周りの目を気にしながら。「この人はまだ僕に心を開かないなあ。」という感じで見ながらやってました。
――慣れてきたらサヴィル・ロウの他のテーラーのことも、ゆとりの目で見られるようになってきたんじゃないですか?
そうですね。ただ、うわさ話はあったと聞いていますね。
――今でも1人ですか?日本人は。
ヘンリープールは1人です。
――サヴィル・ロウでは?
知り合いがモーリス・セドウェルというとこでやっていると思います。日本でテーラーをやってた人なんですけど。
――それぐらい少ないということですね。サヴィル・ロウ・ビスポークという協会みたいなのがありますよね? 一緒に盛り上げていこうという。
はい。
――それは文化もあると思いますが、実際には、テーラー同士はライバルなんですか?
ライバルですけど、対レディーメード業界となると一丸となるのが面白いですよね。「We are Savile Row」みたいな一体感が生まれる。オリンピックみたいなもんですよ。ドメスティックでやっている時はお互いの店のうわさ話を言いますけどね、楽しく(笑)。でも、レディーメードなりイタリアのテーラーを相手にするとなると、俺たちはサヴィル・ロウだ、と一枚岩になるんです。コミニティーが小さいので面白いですね。
――実際はそんなによそのテーラーを意識して営業しているわけではないと?
他店のことはあまり意識していないと思います。ただ、やっぱりセールスポイントはなんだっていうのがある。他の店と差別化を図らないといけない。ただ、ヘンリープールはハウススタイルみたいなものが色濃くあるわけではないですね。
――ハウススタイルがちゃんとあるテーラーもあるんですか?
ハンツマンとか。ただ、スーツですから、デザイナーブランドみたいにわかりやすくはない。玄人が見たら多分わかると思いますが。1つボタンのツイード使ってるから、ハンツマンかなとか。ポケットがすごく斜めになってるからあそこのかなとか。その程度でしょうか。いずれにしても、サヴィル・ロウのテーラーが作るスーツは、ほんとにサヴィル・ロウのスーツと思います。ロンドンカットとかウエストエンドカットとかマニアックな言葉があるんですけどね。
〜第2部に続きます〜
※「第2部:サヴィル・ロウの日本人カッターとして」を読む
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