ヘンリープール 6代目当主
アンガス・カンディ インタビュー
(2010年11月)
⸺アンガスさんはヘンリープールの6代目として、200年以上の伝統を引き継いでいらっしゃいます。お父さんから引き継がれたのはいつの頃ですか?
18歳の時のことからお話ししましょう。当時私は寄宿舎にいたのですが、ある時そこの校長先生に呼ばれて、卒業したらどうするのかという進路指導の話になりました。
卒業したら空軍に入って、飛行機を操縦したいと申し上げたところ、自分の家の素晴らしい家業を継ごうとは思わないのか?お父さんのやっている仕事は世界で一番有名なテーラーなんだよと、初めて校長先生に言われました。
驚いて週末実家に帰り、父親に「お父さんの仕事で私の居場所はあるのかな?」と尋ねたところ、にっこり笑って「もちろん。」と言ってくれました。
そこが私のスタートです。
12月に大学を出て、1月にサヴィル・ロウのワークショップで女性の職人さんに針の持ち方、ステッチの仕方から学んで、それからパリのランバンで1年間見習いとして修行して、縫製を学びました。その後軍隊に入って……、という流れです。
また、父が賢かったと思うのは、私をフランスに行かせて、縫製の勉強させるだけでなく、フランス語を学ばせたことです。
ヒットラーが台頭してくる前の1940年代はパリにショップがありましたし、戦争以前はたくさん顧客がおりましたので、その方たちが私がフランスに行くとホテルにやってきて仕立てをお願いしてくださるようになりました。
その経緯からヨーロッパにトランクショーという形で出向くようになりました。パリ、ジュネーヴ、チューリヒ、デュッセルドルフ、ハンブルグ、ラッセルなどを毎年のように旅することになりました。
サイモンは今、私と同じように大変な思いをしてアメリカ全土を回っています。
私が若くしてビジネスの世界に入った時は、ランバンでカッティングの修行をしたり……、だいたい35歳でやっとテーラーのなんたるかが少しずつ分かりかけた時に、父親の事業を引き継いでいくんだという認識を持ちました。
父は12月28日が誕生日なんですが、彼が70歳を迎えた時に突然、「もうやめ!終わり」ということで店から会社からいなくなって、私は40歳を過ぎた頃だったと思うのですが、しょうがなく継ぐしかなくなって(笑)。
その時に代を交代しました。私は父と同じではなく、70歳をとうに過ぎておりますが、まだ会社に残っております。
⸺アンガスさんを『サヴィル・ロウのドン』という人もいますね(笑)
そうですね(笑)。祖父の話をさせてください。本当に素晴らしい会社を継がせてもらっていると思っていますが、祖父ハワード・カンディ、彼がこの業界のルールを作った人間と言われています。
彼はサヴィル・ロウのテーラー・ザ・アソシエイションの会長でもありましたし、二つのチャリティーの代表でもあり、彼が作ったチャリティーもありました。組合の会長でもあり、現在は組織になっているのですが、テーラーの従業員、賃金体系を作ったのも彼です。
彼を見習って、私も世界のテーラーの組合や協会などの会長も歴任してますし、いろんな所の代表をしているので、そういったことから自分がサヴィル・ロウのドンと言われているのではないでしょうか。
⸺ヘンリープールをお継ぎになった時、プレッシャーは大きかったですか?
どんな会社のオーナーもそうだと思いますが、働いている人間やその将来を背負っているわけなので、プレッシャーがないことはないです。もちろん、それと同時にフィリップ・パーカーをはじめとする、我が社の従業員に支えられなければ今日の私たちがないのも確かです。
⸺スーツの源流であるため、メンズスタイルの文化を創り出したのはヘンリープールだと言う人もいるくらいです。
ヘンリープールがスーツ文化をイギリスで作ったわけではありません。しかし、確かに日本では、スーツ文化の原点を作ったのは私たちだと自負しております。それはこういうことです。
1871年、日本の在英大使館ご一行や皇太子殿下が初めてロンドンにいらっしゃってスーツをお仕立てくださいましたが、その仕立ては私たちなのです。彼らが最初に足を踏み入れた時には袴なり着物なりの彼らなりのユニフォームでいらっしゃったと思います。その方に初めてスーツを作ったのは私たちなのです。
日本の英国大使館の方、皇族の方に初めて洋服を作ったのはヘンリープールで、サヴィル・ロウで作られた洋服のことを背広、日本語でいうスリーピーススーツとして広まったというのは有名な話です。
証明するものがないのですが、1908年ヘンリープールが三越さんからカッターを派遣するよう要請され、三越さんにカッターを英国から送り、スーツの作り方を伝授した経緯がありました。三越さんとしては松坂屋さんよりも先にヘンリープールと仕事をしたと常に言っておられます。
また、ご存じかと思いますが、1921年当時の皇太子殿下(後の昭和天皇)が日本から船に乗って初めて英国政府と調印をするために(トレードなのか平和調印なのか私には分かりませんが)たまたまジブラルタルに到着した時に、ヘンリープールの職人がそこに乗っておりました。
彼に生地を選んでいただき、メジャーをし、それをテレグラフで打電をしました。英国の南の島に到着した時にヘンリープールのフィッターが待ちかまえていて、打電されたものをもとに作ったスーツをフィッティング、3日後に皇太子殿下が到着され、バッキンガムパレスでの調印式とパーティーにホワイトタイの服を着て登場出来るように完成品を手渡すことが出来たというエピソードもあります。
そのことは過去の台帳が残っています。皇太子殿下が2年後に天皇陛下になられた際、私たちヘンリープールに初めて日本の皇室からのロイヤルワラントをいただくことが出来ました。今でもヘンリープール本店のエントランス近くに飾ってあります。
1920~30年代に日本の名だたる方がお越しいただきましたが、1930年には有名な白洲次郎さんがいらっしゃいました。ご存じのとおり彼は大成功を収めたシルクのマーチャントの息子さんでいらっしゃったので大金持ち、彼はケンブリッジで学んでおられたのですが、彼が購入したのはたくさんのヘンリープールのスーツとベントレーの車です。
ブルックリンというのが世界で初めてのモーターサーキットなんですが、ご自分のベントレーでレースによく出ておられたようです。
今ホテルオークラに泊まっておりますが、1932年から大倉家にもたくさんのスーツを作ってまいりました。日本からは大使として後に首相になる吉田茂さんが1932年にいらっしゃってました。
もう一つ面白いエピソードがあります。白洲次郎さんと吉田首相ですが、1950年当時だと思いますが第二次世界大戦が終わって天皇陛下の立場をどうするかという件でアメリカの代表の方と話し合われていた時に、アメリカ人の方が通訳をしていた白洲次郎に対して「あなたの英語はどうしてそんなに美しいんですか?」と尋ねられた時に、白洲さんが「あなたたちもケンブリッジに行ってお勉強なさったらきれいな英語がしゃべれますよ。」とおっしゃったということです。私はこのエピソードはアメリカ人には絶対言わないようにしております(笑)
⸺白洲さんはヘンリープールの常連だったとお聞きしています。「初めての顧客は顧客ではなく2度目のご注文があった時に初めて顧客と呼ぶ」とお店で教えておられるそうですね。
もちろん初来店のお客さまが最も難しいのです。その方の体にあったものを作るにあたって、ものすごく努力をして完璧なものを作らなくてはならない。だからこそ、最初の1着を大事にしよう、ということはすごく言っています。その方が気に入ってくださってこそ次のオーダーが入るので、そうなってはじめて顧客になったのだということを話しています。
うちのお客さまだ、ということで安心して受け入れられるのではなく、最初のお客さまにすごく気を使うという意味で、最初のお客さまを我々の顧客だとは、まだ考えてはいけないという風に言っているのです。
これは教訓というよりも哲学です。そうなるためには最初のオーダーにものすごく神経を注がなくてはいけないという意味です。2回目に来てくださったということは1回目で成功したということなので、成功したからこそ顧客となって長い付き合いが出来るととらえています。
⸺ビスポークを気に入ってくださった、とも考えられますね。既製服にはないビスポークの良さを教えてくださいますか。
すごくシンプルな答えになりますけれど、ビスポークはあなたの為だけに作られたもの、既製服は誰彼の為に作られたもの、という違いです。簡単ですが一番伝わる答えだと思っています。
⸺例えばアメリカ、イタリアのオーダースーツと、サヴィル・ロウのビスポーク・スーツの大きな違いはなんでしょうか?
それは「シェイプ」です。形とエレガンスですね。この場合のシェイプというのは形だけではなくて体にフィットした、という意味です。
アメリカのものはどちらかというと大きなもの、シェイプがほとんどないバサッと着せるもので、イタリアのものは肩がものすごくはっていて肩パットがはいっており、体にフィットするものではない。誤解しないでいただきたいのですが、決して悪く言っているわけではなく、あくまで私が経験上で感じていることです。
それに比べて英国のものは肩がナチュラルでボディーにきれいにフィットするもの、これはハッキングジャケットという馬に乗っての活動のための服からきていると思います。
ヘンリープールのポリシーとしては、一番ステキに見える、着こなしていただけるものを売ることなので、例えばエキゾチック・クロスといいますか、スーパー200みたいなものを高級生地ということでお客さまに押しつけるということは絶対にしたくないわけです。そういうものに限って形がくずれ、半年とか一年もたなかったりするのです。納得できない物は売りたくないんですね。
お父さんから息子へ、息子からその息子へというように100年の歴史を受け継ぐ、長く持つものを作りたいと思ってます。
⸺そのポリシーが日本でも支持されています。日本でビジネスを始められたのは1964年ですね。
1950年に松坂屋の伊藤さんがいらっしゃった時に、モーニングコートやスーツをたくさん作っていただいたのですが、その時私の父に、「ヘンリープールをすごく気に入ったので、少しだけ自分の銀座の店に置きたい」と申し出られたそうです。父はたいそうびっくりしまして、そういう訳にはいかない、と。
しかしその後の親交が深まり、1963年、お話をお断りした父が日本に飛んで、松坂屋さんとの契約にサインをしたのです。ヘンリープールは英国からカッターを日本に派遣し、スタートすることになりました。1964年に銀座松坂屋さんの2階、片方にニナリッチがあり、片方にヘンリープールがあるという環境で、テーラーインショップをオープンさせたのです。
オープンして10年経った頃、それ以降にも英国からカッターを送り続けることは事実上無理ということになり、1974年からライセンスを許諾して、日本で作ることになったわけです。
ある時私は、英国の製造業の意向として、日本の英国商工会のようなところに招待されて日本に行ったことがあります。そのときのパーティーで、私はまだ入りたての17~18歳の青年だったと思うのですが、そこの商工課の一番偉い方から、「(バーバリーやアクアスキュータム等そうそうたるメンバーに向かって)さあ、みなさん。ヘンリープールと同じことをしてください。」と皆さんに私を紹介されました。
それは英国の企業として初めて日本と契約を結んだ為、その後に続けと私をみなさんに紹介してくださったということです。今でも思い出されます。
1964年から今年の2010年まで日本でずっとお仕事をさせていただいたことを誇りに思いますし、次の50年も同じように仕事が続いていくことを願ってやみません。
⸺そういうこともあって、今の日本では注文服と既製服が共存しつつ、それぞれが文化を創っているのですね。
1900年代はハワード・カンディが一番店を大きくしました。300人のソーイングテーラーとカッターが14人という最高に大きな会社となっていました。
しかし残念ながら、その後英国でも既製服産業が盛んになって、アクアスキュータムやダックスなどのメーカーが登場しました。
村という村に一人はテーラーがいて村の人間の仕立てをするという文化でしたけれど、そのテーラーも全ていなくなり、私たちのビジネスも最盛期からはずいぶん変化しました。
その他にも、エレガンスの時代から最高級のフォーマルなものから、ブレイザーだったり、アノラックスみたいなコートにどんどん取って替わって、ドレスコードも燕尾服からタキシードに、モーニングコートもなくなり、一番当時着られていたフロックコートも基本的には消滅してしまい、しいて残っているのがラウンジジャケットであり、タキシードです。フォーマルな洋装が世の中から消えてしまいました。
しかし、悲しいことばかりではなしに、つい最近英国のテレビで見た社交ダンスのコンペティションでは、確かに男性が着ているのはドレスコードでとてもエレガントに見えましたし、もしかしたら将来このような姿が世に戻ってくる可能性だってあるかもしれません。
それに以前よりも晩婚化していますね。これは男性が多少なりともお金を蓄えた上で結婚される、と解釈も出来ますね(笑)
最近では、モーニングコートをいろんな機会で着ることも増えていると聞いてます。実際今日、ホテルオークラでも結婚式だと思うのですが、モーニングコートの方もいらっしゃいました。
⸺ドレスコードは日本ではなかなか根付きにくいようです。
ヨーロッパやアメリカではいわゆるドレスダウンという文化はなくなりました。おそらく欧米で長く続いた景気後退によるものなんですが。仕事のない方が仕事を見つけようとするならば、赤いプルオーバーにジーンズといった服装では仕事を見つけることは出来ません。また仕事を持っている方ならば、その誇りの為にもいいスーツを着ます。景気後退があったからこそ、ドレスダウンという文化が欧米ではなくなりました。2年ほど前から、私たちのスーツに対する需要が高まったように感じます。実際に売り上げも伸びております。
ご存じかもしれませんが、一つエピソードをお話しましょう。
日本のあるテレビ局がインタビューにいらっしゃったことがあります。ディレクターが私にマイクを向けて、「今私は会計会社に行ってきました。みんながポロシャツやジーンズみたいな姿で働いていました。金融業界がそんなことでは、スーツメーカーであるヘンリープールさんの終わりを意味するのではないですか?」といった意味の失礼な質問を受けたのです。
私は「いや、そんなことはない。終わるのはあちらの金融業の方ではないですか。」と申し上げました。
6ヶ月後、実際にその会社(アーサー・アンダーソンだったんですけど)はエンロン社と一緒に倒産しました。やはり終わったのは彼らの方だった、と(笑)
⸺アンガスさんはどなたかにドレスコードを教えてもらったのでしょうか?
父親が仕事に行くときはいつもエレガントな格好をして出かけていましたので、それを見て、どういう場所で何を着るべきかは自然に学んだと思います。
今は、ヘンリープールの社内でモーニングコートやドレスコートは基本的にいつ着るだのということは、ちゃんとスタッフに教えていますし、お客さまにもご説明するように言っています。
1ヶ月ほど前、中国のテレビかフィルムかのクルーが取材に来ました。中国では毛沢東がずっと人民服を着てますから、スーツへのなじみのない方もいるので、どう着るのかというインタビューを受けました。マネキンを何体も置いて、モーニングやスポーツジャケットも着せて、いつ、こういう時にこれを着るんだよということをお教えしました。
彼らはすごく真剣に聞いてくれました。感銘を受けたらしいのが、スポーツジャケットは一般的に3つボタン、ラウンジジャケットは2つ、ディナージャケットは1つ、ドレスコートになるとボタンがない、と。ドレスアップする度にボタンの数が減るというというルールを聞いて、すごく驚いて感心されて帰られました。
⸺実は先ほどのドレスコードの質問を、サイモンさんにも伺ったのです。
本当?どういう返事でしたか?
⸺アンガスさんと同じでした。誰かに教えてもらってはいないけれども、お父様のアンガスさんを見て学んだ、という。
そうですか(笑)
⸺サイモンさんについてお伺いします。200年の伝統をあなたが背負いますね、という話をしたときに、200年はそんなに長いものではなくて、もっと長いブランドは他にもあるという考え方をされていました。謙虚でいらっしゃったのが印象的です。
200年以上も続いている会社は他にもある、と言ったのは多分謙虚な気持ちで言ったのでしょうね。しかし実際のところ、サヴィル・ロウに関しては私たちが一番古くて、初めてショールームを出したのも私たちです。それに続けとばかりにギーブス・アンド・ホークスやハンツマンがやってきて、あの通りが今のようにテーラーの通りのようになった訳だから、私たちがサヴィル・ロウを作ったという歴史を背負っていることに違いはないと思っています。
同じようにテーラーとしては、女王が戴冠式などをする際に着るローブを作る会社は1600年代からあるそうです。特化した衣服ですから、例えば日本人、ロシア人に聞いたとしても知っている人はまずいないでしょう。
しかしヘンリープールという名前に関してはどこの国の人も知っているという意味で、私たちの背負っているものは、広く知れ渡った名前と歴史の長さ、そしてそれだけではなく、価値をも受け継いだと思っています。
⸺サイモンさんはとても衣服とビジネスに精通され、しかも謙虚。息子でもあり、部下でもあり、しかも跡継ぎでもあります。人を育てるコツをお話いただけますか。
サイモンに関してしか言えませんが、街を歩いていたらショップのウィンドーをよく見る子供でした。すごく服に興味を持っていたので、その点はとてもラッキーだったと思います。
14歳の時にはボンドストリートのフェラガモでアルバイトもしていましたし、高校を出てからはファッションのカレッジで学ばせ、3年間ソーイングやカッティングをみっちり学んで、修了証書もきちんと取って、卒業してからチェスターバリーで既製服の作り方を修行させてもらいました。
さらに、私が今でもすごく良かったと思っていることは、テーラー&ロッジというところ、ミルがハザーズフィールドにあるのですが、そこのミルにヘンリープール入社前の彼を派遣し、実際にクラシックな織機で織るという作業をさせました。だから生地に精通するようになったんだと思っています。
彼にしたことでちょっと失敗かなと言えるのが、パリのリオンフランセーというフランス語の学校に行かせたことですね!(笑)
そこでフランス語の勉強をするかわりにお隣に座った美しいドイツ人女性とおつきあいして、いつの間にかドイツ語を習い、あげくに結婚してフランス語を学ぶことを忘れてしまった(笑)。サイモンには息子が二人います。私の孫、ということになりますが、長男にヘンリーと名付けて、次男にジェームズと付けました。夫婦で一緒に考えたそうです。
⸺オーガスタのメンバー用ジャケットはサイモンさんが担当しているとか。
もう10年作ってます。その年のチャンピオンがどういった体型の方になるかは分からないので、その都度作っているわけではないのですが、一応サイズを取りそろえラックに置いてあります。加えて、オーガスタのチェアマンであるとかメンバーシップの方だとかの為に、サイモンが向こうに行ってフィッティングし、この10年作っています。 サイモンはいつもそこで「ゴルフしていってください」とオファーされるようですね。丁重にお断りしているようですが(笑)
⸺今後、サイモンさんに期待することを教えてください。
フィリップにどんどん学び、私のビジネスを引き継いでほしいですね。そして、私がゆっくり休めるようにしてほしい。それだけです。
⸺ところで、アンガスさんはクルマがお好きだとか。
私の唯一の趣味はヴィンテージカーなんです。1932年にスポーツカーとして誕生した車を今もヴィンテージカーとして大事に持っているのですが、その車がどうも1932年代にブルックリンで白洲次郎と同じレースに出ていた車、と言われております。私自身はもちろんそのときに乗っていません。そんなに私は歳がいっていないので(笑)
しかし私が持っている車が白洲次郎さんと同じ時代に同じレースを走っていたというのは奇遇だと思っています。
兵役がイギリスではあるので、私は1920年に空軍にいました。家から100マイルほど離れたところに基地がありました。週末になるとバスのようなものに乗って家に帰るという形だったので、父親にバスで帰るのは大変だから車を買って欲しいとお願いしましたところ、どうせならちゃんとしたものを買わないと、ということで。新車を買うということではなく、こういう車が欲しいという希望を新聞か何かに広告を載せると、持ち主から連絡が来て買いませんか?と連絡が入る売買システムを利用しました。
父親からキャンプに連絡があり、手に入りそうだからすぐに戻ってこいと。週末戻ったら、グリーンルームの中にボディがあって、エンジンが車庫にあって…というバラバラの車がそこにあったんです。
これが車?と思いましたけど、父親に是非買いなさいと勧められ、購入しました。その当時90ポンド、結果的にその車をきちんと組み立てて乗れるようになるまで、2年かかりました。
退役してしばらくは乗れませんでした。あまりにも貴重な車だったので、今サイモンに渡してあります。どうも試算してもらうと20万ポンドの価値のある車なんだそうです。
父親に感謝しなくてはいけないのですが、その車体にものすごい価値が付きました。車自体に歴史があって、スイスの山々を回るアルパイントライアルにも参加していたし、ブルックリンのレースにも出ていたし、1時間86マイル、すごい速さで走れるエンジンを積んでいたという証拠があるために、本来の自動車の価値よりも5万ポンド上乗せした価値を付けてもらっていました。
⸺長いインタビューをありがとうございました。最後に、人生を楽しむ秘訣を教えてください。
確かに、私は自分でも素晴らしい人生を歩んでこれたなと思っております。それはヘンリープールがあったからこそなのです。
私は特にお金持ちというわけではないですが、この仕事を面白いと思い、興味を持ってやってこれたおかげで、素晴らしい人生を歩めたと思っています。
面白いと思うことを面白いと思えるだけ続けることが、一番の秘訣だと思います。
2010年11月10日 東京にて