アンガス・カンディ追悼
ロンドン大空襲を逃れてサフォークで過ごしていたころ、寄宿学校の校長に呼び出されるまでアンガスは親の持つ会社の評判について何も知りませんでした。
1954年フラムリンハム・カレッジでのこと。将来の進路について聞かれ、空軍に入って飛行機乗りになりたいと言うアンガスに、校長は「カンディ君! 君は君の家が世界で最も有名なテーラーだと知らんのか!?」と返したのでした。
ヘンリープールに入社することを決め、アンガスはテーラー&カッターアカデミーで学び、それから見習い生としてパリのランバンのビスポーク部門で1年間修業しました。この時の経験がフランス文化とフランス語への愛を生み、元大統領のヴァレリー・ジスカール・デスタンなどのおしゃれ上手な著名フランス紳士の衣装を担当するというキャリアを積むことにつながりました。
1961年ウェストミンスター自治区による立ち退きによりサヴィル・ロウ37-39番地の土地を失いコークストリートに移転を余儀なくされましたが、サヴィル・ロウの創設者であるヘンリープールがその地に居を構えることの重要性を考えたアンガスの尽力により、会社は1982年にサヴィル・ロウ15番地に戻ることが出来ました。
サヴィル・ロウに戻るタイミングで、ストリクトランド&サンズとサリヴァン・ウーリーというテーラーが持っていたスペースも獲得し、さらにそれらのテーラーからカッターを迎え入れ、ヘンリープールにとっての黄金期を迎えることとなりました。ケン・ガンブルが英国を、パトリック・ミードがアメリカのトランクショーを、アラン・アレクザンダーとフィリップ・パーカーがヨーロッパをカバーし、アンガスがフランス及びのちに市場を広げるに至る日本を担当しました。
マネージング・ダイレクターになるとアンガスは業界の活性化のためには見習い生の新しい世代が必要であると気が付きました。フィリップ・パーカーと共にアンガスは新しい見習い生たちの獲得と彼らを長期雇用するためにトレーニングする継続的なプログラムを作りました。何年にもわたりこの取り組みは成功をおさめ、プログラム導入以来5人もしくはそれ以上の見習い生が師匠に学んだことで、このプログラムがサヴィル・ロウにとって価値あるものであるというアンガスの強い信念は具現化したのです。結果としてSRB(サヴィル・ロウ・ビスポーク協会)という組織が創設され、さらに3つの財団が作られ、ビスポーク・テーラリングの技術とサヴィル・ロウ全体のレガシーを守ることにつながっているのです。
アンガスの曽祖父であるハワード・カンディが1887年に他の2人のテーラーと劇場に向かうハンサムキャブ(馬車)の後部席で立ち上げたBTBA(ビスポーク・テーラーズ・ベネヴォレント・アソシエーション)チャリティー委員会にも携わっています。立ち上げたもともとのコンセプトは、この業界では伝統的にテーラーの妻たちが夫に雇われる形で細かい手縫い作業を仕上げる仕事をしてきたため、その妻たちを守るためのものでした。その雇用形態では妻が未亡人になったり離婚したりした場合、年金や拠出金がなく貧乏を強いられるものでした。近年に至ってこの委員会はテーラーが何かの苦境に陥ったときに手を差し伸べられるような機関となっています。アンガスはこの委員会の会長として何年も仕え、その間恒例行事の夏と冬の舞踏パーティを楽しみました。このパーティは現在でもテーラーたちの楽しみになっています。夏のパーティは今ではSRBプログラムの見習い生の卒業を祝うイベントとなっています。
アンガスのヘンリープールへの貢献の中で最も卓越した仕事は、間違いなくアーカイブルームに収められた顧客台帳の修復整備でしょう。これらの本は有名無名男女にかかわらずすべてのお客様の1846年から今に至るまでの顧客台帳です。これらは1941年に焼夷弾による火を消すために消防士が建物に放水したことで浸水ダメージを受け、アンガスが未来の世代のために修復整備して記録を残す決意をするまで、崩壊寸前の危険な状態にありました。
アンガスは多くの貴重な人脈を大切にしてきました。一番注目すべきはアン王女でしょう。アン王女はアンガスとは生地やファッションへの愛という共通項や、アン王女が英国ファッション・テキスタイル協会の会長を担ってくださっていたことから、お互いに強い絆で結ばれ、ヘンリープールの様々なお祝い行事に列席してくださいました。アンガスの英国王室との人脈はアン王女だけではありません。アンガスは永年にわたるビスポーク・テーラリングとトレード・チャリティーへの奉仕に対して2016年に女王陛下よりMBE(大英帝国勲章)を賜っています。
息子であるサイモン・カンディはアンガスのガーデニング、ジゴンダス・ワイン、そして父親のサミュエル・カンディの影響によるクラシックカーへの情熱を思い起こします。サミュエルはビンテージカーのフレイザー・ナッシュを所有していました。1956年19歳になると初めての車としてMGを購入しようとしたのですが、父親に“まともな車を”とたしなめられました。結局父親の誘導のまま「フレイザー・ナッシュ求む」という広告を地元の新聞に載せることになりました。連絡のあった売主の元を訪ねると、その車は二つに分解され、部品はキッチン、グリーンハウス、ガレージにバラバラに置かれていました。しかしアンガスは挫けることなく、そのスポーツカーを2年かけて修復することにしたのです。生涯の友人であるあのアリステア・プー氏と共に。この二人のスポーツカー修復への努力が話題となりアンガスは1994年の英仏海峡トンネル開通時に初めて通行する個人のドライバーの一人となることが出来たのです。
アンガスは、7代目として会社を率いる息子サイモン・カンディに素晴らしいレガシーを遺しました。新しいチームと、ヘンリープールの事務長でもあるサイモンの妻カレン、そして8代目になる孫のヘンリーとジェイミーと共に。またアンガスにはサラという娘、その夫のクレイグ、そして彼らの子供たちキャメロンとシャーロットがいます。
アンガス・カンディ、本物の紳士のテーラー
1937年7月7日生~2024年8月12日逝去